瑩山禅師と伝光録

瑩山紹瑾禅師 曹洞宗の太祖

瑩山紹瑾禅師の生涯

お願い:高僧(僧侶)の伝記は、在家の人であっても、自分の修行に役に立てようと思って読むと意味があるように思いますので、掲載しています(管理人)

 

瑩山紹瑾(けいざん じょうきん、1268年11月21日-1325年9月29日)は、日本の曹洞宗の第四祖 一般には瑩山禅師と呼ばれる 宗派内では道元を高祖(こうそ)、瑩山を太祖(たいそ)と尊称する
越前多禰(現在の福井県越前市帆山)の豪族瓜生氏の長男として生まれる
8歳で永平寺に入り、徹通義介の下で沙弥(しゃみ 雛僧・小僧のこと)となる 13歳の時、永平寺2世孤雲懐奘(こうんえじょう)について出家得度
    1280年 孤雲懐奘について得度
    1285年 諸国行脚に立つ。宝慶寺(ほうきょうじ)寂円などを訪ね、京都にて臨済宗聖一  派の東山湛照や  白雲慧暁などから密教禅の系統を学び、さらに比叡山に上って天台教学を学ぶ
  またこの年、弘安8年(1285)、瑩山禅師は『法華経』「法師功徳品」の一文である      「父母所証眼悉見三千界」を聞き、悟りを得る  師・徹通義介禅師いよいよ励ます
    1286年 紀伊由良(現在の和歌山県日高郡由良町)の興国寺に心地覚心*(臨済宗)を訪ね    る

  *心地覚心は、道元禅師に菩薩戒を受けその後入宋して、無門慧開禅師に参じてその印証を得ている  後に              法燈国師の称号を受く 

    1288年 宝慶寺寂円を再訪し、永平寺に帰山
    1289年 三代相論により永平寺を下山した義介に従って加賀(現在の石川県金沢市)大  乗寺に移る 徹通義介の下で坐禅に励む
  1294年 27歳 徹通義介禅師の指導の下、「平常心是道(びょうじょうしんこれどう)」    の公案によって永仁2年10月20日の冬に大悟 「黒漆の崑崙夜裡に奔る」「茶に逢って  は茶を喫し、飯に逢っては飯を喫す」という見解(けんげ)を呈した、
    1300年 義介の代理として大乗寺の修行僧に対し釈尊以来五十二祖の機縁を提唱(=講  義)する。後に『伝光録』としてまとめられる
    1301年 会下の峨山紹碩が大悟(25歳) 印可証明を与える
    1321年 能登の總持寺(そうじじ)を開山する。
    1322年 後醍醐天皇より總持寺に「日本曹洞賜紫出世之道場」の綸旨を下される
    1324年 『瑩山清規』(けいざんしんぎ)を著わす
    1325年 永光寺(ようこうじ)にて病没

瑩山門下には四哲と呼ばれる明峰素哲*、無涯智洪、峨山紹碩*、壺菴至簡をはじめとする俊英逸材が多数輩出し曹洞宗興隆の基礎を固めた 特に、明峰素哲(めい ほうそてつ)と峨山紹碩(がさんじょうせき)の門下からそれぞれ二十数人の嗣法者があり、通幻寂霊などさらに逸材が輩出し、曹洞宗がおおいに興隆した
晩年の道元は女性の出家修行に否定的であったが、瑩山は積極的に門下の女性を住職に登用し、女人成道の思想を推し進めた

 

明峰素哲禅師と峨山韶碩禅師は、瑩山禅師の2神足(2大弟子)と呼ばれる



明峰素哲禅師―瑩山禅師の印可証明を受ける

明峰素哲(めいほうそてつ)
明峰素哲 (建治3年(1277年)-観応元年/正平5年3月28日(1350年5月5日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての曹洞宗の僧。俗姓は富樫氏。諱は素哲。道号は明峰。
当初比叡山に上って出家して受戒したが、その後鎌倉建長寺に移り、さらに加賀国大乗寺に瑩山紹瑾をたずねてその門下となった。

長い期間参禅しその印可を受けた。その後加賀国伝燈寺の恭翁運良に参禅し、大乗寺・永光寺の住持を歴任した後、越中国の光禅寺を創建して第1世となった。

 

彼の法を継承した弟子二十余人,法流は明峰派と呼ばれ,峨山派とともに曹洞宗の二大門流となった。「法は明峰」とされた。



 

峨山韶碩禅師ー瑩山紹瑾禅師の法嗣

峨山韶碩(がさんじょうせき)
建治元年(1275年)-正平21年/貞治5年10月20日(1366年11月23日)
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての曹洞宗の僧。能登国の出身。總持寺(そうじじ)第2世。平成27年は二祖・峨山禅師の650回大遠忌

[總持寺は、元々本山であった能登の總持寺祖院と今の大本山・總持寺(横浜の鶴見区の総持寺)とがあります]

略歴
16歳の時比叡山で出家し、円宗に師事して天台教学を学んだ。一説には白山修験道の行者であったともいう。永仁5年(1297年)、上洛途中の瑩山紹瑾に出会う。
正安元年(1299年)、加賀国大乗寺の瑩山のもとを訪れ、徳治元年(1306年)瑩山から印可を受けた。
元亨元年(1321年)瑩山から嗣法し、正中元年(1324年)總持寺2世となり曹洞宗発展の基礎を築いた。

峨山は永光寺(石川県羽咋市)に輪住制を置いた先師瑩山にならい總持寺を輪住寺と定めた。門下には「峨山二十五哲」と呼ばれた多くの優れた弟子がいたが、特に太源宗真、通幻寂霊、無端祖環、大徹宗令、実峰良秀にそれぞれ塔頭寺院を開かせ、總持寺住職はこの五院住職の輪番とした。
暦応3年(1340年)、永光寺(ようこうじ)住職を兼任し、入寂するまで20余年にわたって両寺を往還しながら全国に教線を拡大した。
貞治5年(1366年)92歳で入寂。

 

 

 

 

瑩山紹瑾禅師 伝光録


伝光録 でんこうろく 

『瑩山 (けいざん) 和尚伝光録』の略称。總持寺の開山である瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)禅師の撰述。2巻あり。

正安年間 (1299-1302) 成立。

釈尊から道元禅師の弟子・孤雲懐弉までの祖師の法の相承の略伝。

それぞれの祖師の悟りの機縁も記述されている

 

※開山 とは、禅寺を開いた和尚

禅宗においては、開山和尚は悟りの体現者ゆえ、時に本尊より尊ばれる

開山和尚を祀る塔や堂をそれぞれ開山塔、開山堂という

開山和尚の年忌を開山忌(かいさんき)と言う


禅師は「ぜんじ」と読みます 「ぜんし」ではありません

 

曹洞宗には二大本山の永平寺と總持寺とがあるが、

永平寺の開山は道元禅師、總持寺の開山は瑩山禅師

 

 

 

瑩山禅師伝光録

伝光録とは一体験者から体験者に伝わる仏道の祖師方の伝記

伝光録がどういうものかのサンプルは、

 http://www17.plala.or.jp/tozanji/teisyou/denkouroku/denkouroku6.html
 を参考にして下さい

 このURLの各祖師(そし)の最後のコメントは故・川上雪担老師(義衍老師の元で修行)のものです

 

井上義衍老師著『瑩山禅師「伝光録提唱」』の注文はこちらから

 

 

 

伝光録
首章~第八祖
首章、釈迦牟尼仏
第一祖、摩訶迦葉尊者
第二祖、阿難陀尊者
第三祖、商那和修尊者
第四祖、優婆毬多尊者
第五祖、提多迦尊者
第六祖、弥遮迦尊者
第七祖、婆須密多尊者
第八祖、仏陀難提尊者

第九祖~第十七祖
第九祖、伏駄密多尊者
第十祖、脇尊者
第十一祖、富那夜奢尊者
第十二祖、馬鳴尊者
第十三祖、迦毘摩羅尊者
第十四祖、龍樹尊者
第十五祖、迦那提婆尊者
第十六祖、羅篌羅多尊者
第十七祖、僧伽難提尊者

第十八祖~第二十五祖
第十八祖、伽耶舎多尊者
第十九祖、鳩摩羅多尊者
第二十祖、闍夜多尊者
第二十一祖、婆修盤頭尊者
第二十二祖、摩奴羅尊者
第二十三祖、鶴勒那尊者
第二十四祖、師子尊者
第二十五祖、婆舎斯多尊者

第二十六祖~第三十四祖
第二十六祖、不如蜜多尊者
第二十七祖、般若多羅尊者
第二十八祖、菩提達磨尊者
第二十九祖、大祖大師
第三十祖、鑑智大師
第三十一祖、大医禅師
第三十二祖、大満禅師
第三十三祖、大鑑禅師
第三十四祖、弘済大師

第三十五祖~第四十二祖
第三十五祖、無際大師
第三十六祖、弘道大師
第三十七祖、雲巌無住大師
第三十八祖~第四十七祖
第三十八祖、洞山悟本大師
第三十九祖、雲居弘覚大師
第四十祖、同安丕禅師
第四十一祖、後の同安大師
第四十二祖、梁山和尚

第四十三祖~第五十二祖
第四十三祖、太陽明安心大師
第四十四祖、投子和尚
第四十五祖、芙蓉山道楷禅師
第四十六祖、丹霞淳禅師
第四十七祖、悟空禅師
第四十八祖、天童珏禅師
第四十九祖、雪ちょう鑑禅師
第五十祖、天童浄和尚
第五十一祖、永平元和尚
第五十二祖、永平弉和尚

 

瑩山和尚 伝光録提唱ー井上義衍老師

井上義衍老師語録 無相伝光録から抜粋

坐禅と伝光録ー瑩山禅師 井上義衍老師提唱

今日、昔の人のように本当に大悟などできるものかという人が多いけど、これはうそです。
絶対にそういうことはない。
今日の人だって、必ずできるということです。

ただ、そういうことのあることを信じない。

それですから、せつかく坐禅儀などに方法も手段も説いてあっても、それをただ理解するだけであって、本当にやらんから分からん。

それだから、その体験がないから多数決でもって、そんなことが今日の人にできるもんか、と片付けたくなる。
もし本当に今日の人にできなんだら、経論みな焼き捨てにやならんです。教えんでもいいんです。

こんなことが本当にあります、というたって、今日説明として残っているだけで、事実がないようならうそをついている。
そういうことになるでしょ。

そういう面で大いに考えなければならんところです。
(井上義衍『無相伝光録』pp.41-42)

[井上義衍『無相伝光録』は810頁あります]

 

坐禅とはー瑩山禅師伝光録提唱 井上義衍老師

忙しい真っただ中においても、静かな状況がある。坐禅をして、自分の内容が少し分りはじめると、駅のホームに腰掛けてでもできる。

 

それは、どうしてそういうことが言えるかいうたら、駅のホームの雑踏の中で、人の動きや、いろんなものに、ザアーザー、ザアーザー振り回されて、どっこにも手のつけようのないほど、騒々しい。

 

そういう中でも、 一切どうしようということなしに打ち任せる。そうすると、必ずキチツと決まる。それは何故かというと、耳は聞こうと思って間くんじやない、眼は見ようと思うたから見えるんじやない、極く必然な動きが、そのまんまにあるから、坐禅するのにちようど都合がよい。

 

それですから、忙しくて忙しくてどうしても時間がないと言う人は、それに訴えて今の様子に打ち任せて行きさえすれば、そこに、法自体としての動きがあるから、必ず効果がでてくる。
「三界の中にして劫外を明らめ、煩悩を断除するも、」ここですね。みんなが煩悩をなくそう、こう思う、それは病です。そんなことを言ったら修行になりますか? 

一般的に。そう言うことをみんな忘れている。煩悩らしいものをなくすということが修行になると思うておる。

みんな小乗仏教の人の解釈です。

 

自分という自己を認めておいて、そしてその自己の気に入ったような取り扱いをして、自分の気に入る作りごとを盛んにやる。

それが、修行だと思っている。

それが世間一般の修行です。

 

そんなもの千万年やつたって解脱することはできない。

そういうことが一般に分からんです。

(井上義衍『無相伝光録』pp.71-72)

 

伝光録ー祖師の悟りの伝燈

伝光録―瑩山禅師 川上雪担老師提唱

井上義衍老師著『瑩山禅師「伝光録提唱」』の注文はこちらから

 

第三十七章 [雲巌和尚]

第三十七祖雲巌無住大師、初め百丈に参侍すること二十年、後に薬山に参ず。
山問う、百丈更に何の法をか説く、師日く、百丈有る時上堂、大衆立定す、柱杖を以て一時に趁散す。また大衆と召す、衆首を回らす。丈日く、是れ甚麼ぞと。山日く、何ぞ早く恁麼に道はざる、今日子に因りて海兄を見ることを得たり。師言下に於て大悟す。

師小くして石門(石門山馬祖道一入寂の地)に出家す。百丈懐海禅師に参ずること二十年、因縁契はず、後に薬山に謁す。山問ふ、甚麼の処より来る。師日く、 百丈より来る。山日く、百丈何の言句ありてか衆に示す。師日く、尋常日く、我に一句子あり百味具足すと。山日く、鹹は即ち鹹味、淡は即ち淡味、鹹ならず淡 ならず是れ常味、作麼生か是れ百味具足底の句。師無対。山日く、目前の生死を奈何せん。師日く、目前に生死なし。山日く、百丈に在ること多少の時ぞ。師日 く、二十年。山日く、二十年百丈に在りて俗気だも也た除かず。
他日侍立する次で、山又問ふ、百丈更に甚麼の法をか説く。師日く、有時道く、三句の外に省し去る、六句の外に会取せよと。山日く、三千里外、且喜すらくは没交渉。又問ふ、更に甚麼の法をか説く。師日く、有事上堂、乃至師言下に於て大悟す。

我に一句子あり、百味具足すと云えば、これを仏なりとて、吟味鑑賞する、二十年来なを俗気だも除かずと、目前の生死をいかんせんと云われて、生死を持ち出 す、日く生死なしと。仏教として何かあると思って止まぬ、どうしてもこれを得て、なにかしらになろうとする、我が畢生の大事竟んぬとしたい、実は早に終 わっている、どうしてもこれがわからない、手に入らんのです。三句の他に省し去れ、六句の外に会取せよと、必死にやってるんです、且喜すらくは没交渉と、 一喝ぶっ飛ばされてなをかつですか、ついに知るんです、百丈大衆を鱈たらい回しの、これなんぞ。なんでそれを早く云わない、今日初めて海兄を知ると、もや もや首を突っ込んでいた、そういう自分にまったく用はなかったんです、な-んだというほどに、言下に於て大悟す。そうです、因縁時節とは云いながら、たと い雲巌無住大師これを得るとも、他の凡百何千ついに死ぬまで、てめえの糞袋に首を突っ込むきり、いったいこれをなんとしようぞ、生まれ変わってまた出て来 いという以外にないか、次の世には必ずと。

孤舟棹ささず月明に進む、頭を回らせば古岸の蘋今だ揺がず。

孤舟棹ささずとは、二十年参じて薬山を問う雲巌大師ですか、月明とは仏ですか、古岸は百丈と、蘋伸び放題の草ですか、まことにこれ師弟の問答のありさまを 見るようで、気がつくとなんと初めから大悟徹底です、面白いですね、この偈を読んで気に入らない人なんかいない、いい二連です、雲巌無住大師万歳。

 

 

第五十一章 [道元和尚]

第五十一祖永平元和尚、天童の浄和尚に参ず。浄一日、後夜の坐禅に衆に示して日く、参禅は身心脱落なりと。師聞きて忽然大悟す。直に方丈に上りて焼香す。 浄日く、焼香の事作麼生。師日く、身心脱落し来たると。浄日く、身心脱落、脱落身心。師日く、這箇は是れ暫時の技倆なり、和尚乱りに某甲を印すること莫 れ。浄日く、我乱りに汝を印せず。師日く、如何なるか是れ乱りに印せざる底。浄日く、脱落身心。師礼拝す。浄日く、脱落脱落。時に福州の広平侍者日く、外 国の人恁麼の地を得る、実に細事に非ず。浄日く、這裡幾回か拳頭を喫し、脱落雍容し又霹靂すと。

 師諱は道元、俗姓は源氏、村上天皇九代の苗裔。後中書王八世の遺胤なり。正治二年初めて生まる。時に相師見奉りて日く、此子聖子なり。眼に重瞳あり、必 ず大器ならん。古書に日く、人聖子を生ずる時は、其母命危うし。この児七歳の時、必ず母死せんと。母儀是れを聞きて驚疑せず。怖畏せず。ますます敬を加 う。果たして師八歳の時母儀即ち死す。人悉く道う。一年違い有りと雖も、果たして相師の言に合すと。即ち四歳の冬、初めて李僑が百詠を祖母の膝上に読み、 七歳の秋、始めて周詩一篇を慈父の閣下に献ず。時に古老名儒悉く道う、此子凡流にあらず神童と称すべしと。八歳の時、悲母の喪に逢うて、哀嘆尤も深し。即 ち高雄寺にて香煙の上るを見て、生滅無常を悟り、其より発心す。九歳の春、始めて世親の倶舎論をよむ。耆年宿徳云う、利なること文殊の如し、真の大乗の機 なりと。師幼稚にして耳の底に是等の言をたくわえて苦学を作す。
 時に松殿の禅定閣は、関白摂家職の者なり。天下に並びなし。王臣の師範なり。此人、師を納れて猶子とす。家の秘訣を授け、国の要事を教う。十三歳の春、 即ち元服せしめて、朝家の要人となさんとす。師独り人にしられずして、竊かに木幡山の荘を出で、叡山の麓に尋ね到る。時に良観法眼と云うあり。山門の上 綱、顯密の先達なり。即ち師の外舅なり。彼の室に至りて出家を求む。法眼驚きて問うて日く、元服の期ちかし。親父猶父定めて瞋り有らんか如何。時に師日 く、悲母逝去の時囑して日く、汝出家学道せよと。我も亦是くの如く思う。徒らに塵俗に交らんとおもわず、但だ出家せんと願う。悲母及び祖母姨母等の恩を報 ぜんが為に出家せんと思うと。法眼感涙を流して、入室を許す。即ち横川の首楞厳院の般若谷の千光房に留学せしむ。卒に十四歳健保元年四月九日、座主公円僧 正を礼して剃髪す。同十日延暦寺の戒檀院にして、菩薩戒を受け、比丘となる。しかしより出家の止観を学し、南天の秘教をならう。十八歳より、内に一切経を 披閲すること一遍。後に三井の公胤僧正、同じく又外叔なり。時の明匠世にならびなし。因って宗の大事をたずぬ。公胤僧正示して日く、吾宗の至極、いま汝が 疑処なり。伝教慈覚より累代口訣し来たるところなり。この疑をしてはらさしむべきにあらず。遙に聞く、西天の達磨大師東土に来てまさに仏印を伝持せしむ と。その宗風いま天下にしく。名ずけて禅宗という。もしこの事を決択せんとおもわば、汝建仁寺栄西僧正の室に入りて、その故実をたずね、はるかに道を異朝 に訪うべしと。
 因て十八歳の秋、健保五年丁丑八月二十五日に、健仁寺明全和尚の会に投じて僧儀をそなう。彼の健仁寺僧正の時は、もろもろの唱導、はじめて参ぜしには、 三年をへて衣をかえしむ。しかるに師のいりしには、九月に衣をかえしめ、すなわち十一月に僧伽梨衣をさずけて、以て器なりとす。かの明全和尚は、顕密心の 三室を伝えて、ひとり栄西の嫡嗣たり。西和尚健仁寺の記を録するに日く、法蔵はただ明全のみに囑す。栄西が法をとぶらわんとおもうともがらは、すべからく 全師をとぶらうべし。師その室に参じ、重ねて菩薩戒を受け、衣鉢等をつたえ、かえて谷流の秘法一百三十四の行法、護摩等をうけ、ならびに律蔵をならい、ま た止観を学す。はじめて臨済の宗風を聞きて、およそ顯密心の三宗の正脈、みなもて伝授し、ひとり明全の嫡嗣たり。やや七歳をへて、二十四歳の春、貞応二年 三月二十二日、健仁寺の祖塔を礼辞して、宋朝におもむき天童に掛錫す。大宋嘉定六癸未の暦なり。
 在宋の間、諸師をとぶらいし中に、はじめ徑山淡和尚にまみゆ。淡問うて云く、幾時か此間に到る。師答えて日く、客歳四月、淡日く、群に随い恁麼に来たる や。師日く、群に随わず恁麼し来たる時作麼生。淡日く、また是れ群に随いて恁麼にし来たる。師日く、既に是れ群に随いて恁麼にし来たる、作麼生か是なら ん。淡一掌して日く、この多口の阿師。師日く、多口の阿師は即ち無きにしもあらず、作麼生か是ならん。淡日く、且来喫茶。又台州小翠巌に造る。卓和尚に見 えて便ち問う。如何なるか是れ仏。卓日く、殿裏底。師日く、既に是れ殿裏底、什麼としてか恒沙界に周遍す。卓日く、遍沙界。師日く、話堕也。かくのごとく 諸師と問答往来して、大我慢を生じて、日本大宋にわれにおよぶ者なしとおもい、帰朝せんとせし時に、老しん(王に進)と云うものありすすめて日く、大宋国 中ひとり道眼を具するは浄老なり。汝まみえば必ず得処あらん。かくのごとくいえども、一歳余をふるまで、参ぜんとするにいとまなし。時に派無際去りて後、 浄慈浄和尚天童に主となり来たる。即ち有縁宿契なりとおもい、参じてうたがいをたずね、最初にほこさきをおる。因て師資の儀をとる。委悉に参ぜんとして、 即ち状を奉るに日く、某甲幼年より菩提心を発し、本国にして道を諸師にとぶらいて、いささか因果の所由をしるといえども、いまだ仏法の実帰をしらず、名相 の懐標にとどこおる。後に千光禅師の室にいりて、初めて臨済の宗風をきく。今全法師にしたがい大宋にいり、和尚の法席に投ずることをえたり。これ宿福の慶 幸なり。和尚大悲外国遠方の小人、願わくは時候に拘わらず、威儀不威儀を択ばず、頻々に方丈に上り、法要を拝聞せんとおもう。大慈大悲愍聴許したまえ。時 に浄和尚示して日く、元子いまより後は、著衣扠衣をいわず、昼夜参問すべし、われ父子の無礼を恕すが如し。
 しかしより昼夜堂奥に参じ、親しく真けつを受く。ある時侍者に請せらるるに、師辞して日く、われは外国の人なり。かたじけなく大国大刹の侍司たらんこ と、すこぶる叢林の疑難あらんか、ただ昼夜に参ぜんとおもうのみなり。時に和尚いわく、実に汝がいうところ、もっとも謙卑なり。そのいいなきにあらず。因 てただ問答往来して、提訓をうくるのみなり。しかるに一日後夜の坐禅に、浄和尚入堂し、大衆のねむりをいましむるに日く、参禅は身心脱落なり、焼香礼拝念 仏修懺看経を要せず、祇管に打坐して始めて得べしと。時に師聞きて忽然として大悟す。今の因縁なり。おおよそ浄和尚にまみえてより、昼夜に弁道して、時し ばらくも捨てず。浄和尚よのつね示して日く、汝古仏の操行あり。必ず祖道を弘通すべし。われ汝をえたるは、釈尊の迦葉をえたるがごとし。因て宝慶元年乙 酉、日本嘉禄元年たちまち五十一世の祖位に列す。即ち浄和尚囑して日く、早く本国にかえり、祖道を弘通すべし。深山に隠居して、聖胎を長養すべしと。
 しかのみならず、大宋にして五家の嗣書を拝す。いわゆる、最初広福寺前住惟一西堂というに見ゆ。西堂日く、古蹟の可観は人間の珍玩なり、汝いくばくか見 来たる。師日く、未だ曾て見ず。ときに西堂日く、吾那裏に一軸の古蹟有り、老兄が為に見せしめんといいて携え来たるをみれば、法眼下の嗣書なり。西堂日 く、ある老宿の衣鉢の中より得来れり。惟一西堂のにはあらず。そのかきようありといえども、くわしく挙するにいとまあらず。又宗月長老(は天童の首座たり し)について、宗門下の嗣書を拝す。即ち宗月に問いて日く、今五家の宗流をつらぬるにいささか同異あり、そのこころいかん、西天東土嫡嫡相承せばなんぞ同 異あらん。月日く、たとい同異はるかなりとも、ただまさに、雲門山の仏法とは是の如くと学すべし。釈迦老子なにによりてか、尊重他なる。悟道によりて尊重 なり。雲門大師なにによりてか尊重他なる、悟道によりて尊重なり。師この語を聞くにいささか領覚あり。又龍門の仏眼禅師清遠和尚の遠縁にて、伝蔵主という 人ありき。彼の伝蔵主また嗣書を帯せり。嘉定のはじめに、日本の僧隆禅上座、かの伝蔵主やまいしけるに、隆禅ねんごろに看病しける勤労を謝せんが為に、嗣 書をとりいだして、礼拝せしめけり。みがたきものなり。汝が為に礼拝せしむといいけり。それより半年をへて、嘉定十六年癸未の秋のころ、師天童山に寓止す るに、隆禅上座ねんごろに、伝蔵主に請して、師にみせしむ。これは楊岐下の嗣書なり。又嘉定十七年甲申正月二十一日に、天童無際禅師了派和尚の師書を拝 す。無際日く、この一段の事、見知を得ること少し。いま老兄知得す、便ち是れ学道の実帰なり。時に師喜感勝ること無し。
 又宝慶年中、師台山応山等に雲遊せし序に、平田の万年寺にいたる。時の住持は福州の元さい和尚なり。人事の次でに、むかしよりの仏祖の家風を往来せしむ るに、大い(さんずいに為)仰山の令嗣話を挙するに元さい日く、曾て我箇裏の嗣書を看るやまた否や。師日く、いかにしてみることをえん。さい自らたちて嗣 書をささげて日く、這箇はたとい親しき人なりといえども、たとい侍僧のとしをへたるといえども、これをみせしめず。これ即ち仏祖の法訓なり。しかあれど も、元さいひごろ出城し、見知府の為に在城の時、一夢を感ずるに日く、大梅山法常禅師とおぼしき高僧あり。梅華一枝をさしあげて日く、もしすでに船舷をこ ゆる実人あらんには、華を惜しむこと勿れといいて、梅華をわれにあたう。元さいおぼえずして、夢中に吟じて日く、未だ船舷に跨らず、好し三十棒を与うる に。しかあるに、五日をへざるに老兄と相見す。いわんやすでに、船舷に跨ぎ来たる、この嗣書また梅華綾にかけり。大梅のおしうるところならん。夢中と符号 するゆえにとりいだすなり。老兄もしわれに嗣法せんともとむや、たといもとむともおしむべきにあらず。師信感おくところなし。嗣書を請すべしというとも、 ただ焼香礼拝して忝敬供養するのみなり。時に焼香侍者法寧というあり。はじめて嗣書を見るといいき。時に師ひそかに思惟しき、この一段の事、実に仏祖の冥 資にあらざれば、見聞かたし。辺地の愚人にしてなんの幸いありてか、数番これをみる。感涙袖をぬらす。この故に師、遊山の序に、大梅山護聖寺の且過に宿す るに、大梅祖師来たりて開華せる一枝の梅華をさずくる霊夢を感ず。師実に古聖とひとしく、道眼をひらく故に、数軸の嗣書を拝し、冥応のつげあり。是くの如 く諸師の聴許をこうむり、天童の印証を得て、一生の大事を弁じ、累祖の法訓をうけて、大宋宝慶三年日本安貞元年亥歳帰朝し、はじめに本師の遺跡健仁寺にお ちつき、しばらく修練す。時に二十八歳なり。其後景勝の地をもとめ、隠栖を卜するに、遠国幾内有縁檀那の施す地を歴観すること一十三箇所、皆意にかなわ ず。しばらく洛陽宇治郡深草の里極楽寺の辺に居す。即ち三十四歳なり。宗風漸くあおぎ、雲水あいあつまる。因て半百にすぎたり。十歳をへて後、越州に下 る。志此の莊の中、深山をひらき、荊棘を払うて茅茨をふき、土木をひきて、祖道を開演す。いまの永平寺これなり。興聖に住せし時、神明来たりて聴戒し、布 薩ごとに参見す。永平寺にして龍神来たりて八斎戒を請し、日々回向に預らんと願い出でて見ゆ。これにより日々に八斎戒をかき回向せらる。いまにいたるまで おこたることなし。

 五三八嘘の始まりといって五三八年百済の聖明王が日本に仏像とお経を伝え、次いで聖徳太子に興り、弘法、伝教大師と護国仏教ですか、しかも本当ほんらい のものが入ったのは道元禅師によってです、どうしてこうなるといってそりゃよくわからんです、達磨さん祖師西来意も同じです、何百年してようやく本当にな る、ヨーロッパへ仏教が遷るのも同じでしょう、そうですねえ、個人にとっても同様ですか、まず仏教という噂があって、有心のものをしてこれという、学人得 便儀あり落便儀あり、しばらくあるあると思っているんです、夢を見ている、それゆえに打睡一下する、参禅は身心脱落なり、焼香礼拝念仏修懺看経を要さず、 祇管に打坐してはじめて得んと、じつにこれ他にまったくなしを知る、仏教ことはじめです、わしがもとへ来る連中もまずこれです、お経だのあらぬ噂だのだか らどうだとやっている間は、そりゃ参禅にはならんです、つい昨日までやっていたのが縁に触れて落ちる、
「おもしろいことがさっぱりない、左右どこをみたってつまらん。」
 という、
「よしようやく自分を捨てる糸口だ、断然坐れ。」
 というて坐る、日ならずしてちらとも気がつく。死ぬのが先、歓喜はそのあとですよ。自分失せて無上楽。
 身心脱落し来たるという、やったあやりましたです、違う脱落せる身心底、もとっからこのとおりと示す、ここにおいてまったく納まる。這箇はこれ暫時の技 倆なり、和尚みだりに印するなかれとは、天晴れ道元禅師ですが、脱落脱落、それをしも奪い取るんです、礼拝感涙はまさにこれ恁麼の地。

明皎皎地中表無し、豈に身心の脱し来たるべき有らんや。

 わしは老師の所持する印下状を見て、それが大雲祖岳老師のものであった、
「これないと商売できんでなアッハッハ。」
 と笑う、一日入室面会して取って来た、そりゃ気に入ったってことないとそうもいかんだろうがという、そうかそんならわしいらねえやといって、仏教とはど うも違う祖岳老師、たとい形であっても、老師の法は別だろうがと思い、つまりそれっきりにしたら、あとでえらいめにあった。だれも信用しない、しばらく どっちつかずであったが、うっふそれもなんていうことはない、要するに紙切れだ。
 衣鉢相伝という、六祖禅師のような大騒ぎ、でもこれ五家の嗣書をすべて見るとは、たいへんなこった、まったく我国仏法の創始とて、これほどふさわしいこ とはない。大宋国に於ても、たいへんにありがたがるだけの、すでにして現実ではなくなっていた、そこに海を渡って来てついに活仏となったこの人、披露した 嗣書が忽然として消える、まさにそういう風景だ。即ち明皎皎地中表なしです、身心脱落という、漆桶底をぶち抜いたという、かってにうるし桶のまっくらけだ といっていた、そいつがなかったと知る、そりゃどうしたって必要だ、だが知ったとたんに不必要なんです、もとはじめっからとっかかりひっかかりない明皎皎 地です。ただです。ただに印下もくそもないではないかと、アッハッハそういうこってす。
 でもこれたしかに仏仏に単伝する以外に手段はないんです。
 自分で自分にマルつけるとかコンセンサスなどない、一切他の便利はないんです、これが仏教です、仏教というは道元禅師の他にないです。

 

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